西浦直亨から気付かされたこと | ヤクルトが好き

西浦直亨

野球、そのなかのヤクルトに限定しても観戦記は世の中にごまんと溢れている。日記のように見たものをそのまま表しているもの、戦評的なものを、技術論、愚痴や批判……その中身は様々だ。

これだけ多くの人が世の中に送り出している観戦記をはたしてぼくが書いても意味があるのだろうか。そんな思いがずっとあった。他の人がすでに書いているものを書いても意味がない。でも、ひとつの形として残すのも悪くないな、そう思い立ったが吉日。

年度始めでも、開幕戦でも、月の初めでもない今日から少しばかり書いてみる。よくある采配や配球的なものを残すつもりは毛頭ない。球場であれ、自宅であれ、パブリックビューイングであれ、見たものをひとつの景色として捉え、思ったこと、考えたことを残すつもりだ。

更新時間は試合終了後から翌日の午前中までがめど。文字数は1000文字いかない程度が目安。長くても読むのに疲れてしまうから。ちなみに敗因がどうとか、配球がどうとか、そういうのはスポーツ新聞なり野球媒体にお任せする。

朝刊のように朝読んで面白いものが理想だが、今のぼくにその筆力が備わっているかは疑わしい。最初はいろいろな角度から書いてみる。テーマや文体は試行錯誤する。しばらくはβ版みたいなイメージでゆるくとてもゆるくお付き合い願いたい。

2021年5月4日(火)
ヤクルト[5-11]阪神(神宮)

ぼくは2016年から神宮球場で開催されるヤクルト戦の有観客試合をすべて同地で見届けてきた。それなのに今日はモニター越しで観戦している。そのやるせなさがそのまま現れたような試合だった。

ぼくが感じたやるせなさ、それはエラーからの失点である。この日も奪われた先制点は西浦直亨の送球エラーからだった。エラーからの失点ほどやるせないものはない。できることなら見たくない。

でもそうはいかない。ミスは野球につきもの、いや野球でなくても、それこそ生きていく上でミスは避けて通れない。程度や回数こそ違っても、ミスをしないで生きてきた人は1人もいないだろう。もしいるとすれば、ミスをミスと認めない頑固な人か、生まれたての赤ちゃんくらいなものだ。両者は似たようなものだが。

話を試合に戻すと、西浦のエラーが起点となって1点を失った。それは紛れもない事実であり結果である。スコアボードには阪神の得点1とヤクルトの失策1が記録される。その後に本塁打を打ったからといってミスが帳消しになるわけではない。失策1と本塁打1の両方が記録として残るだけだ。

ペナントレースも、野球人・西浦としての人生も、今日で終わり、ではなく明日以降も続いていく。そう考えたときに本塁打で失策を帳消しにするのではなく、ミスをミスと認め向き合い、次回同じようなミスをしないようにどうするか、を考えていくことが大事なのではないか。

西浦が試合後なり明日の試合前なのかはわからないが、いつも以上に守備練習を行い守備の上達を目指していくこと。それが今日の失敗を取り返すことなのだと思う。本塁打で帳消し、ではない。

フェンス越し、モニター越しに見てる限り、西浦はマジメだ。きっと本塁打で帳消しなどと思うことなんて微塵もなく、練習をたくさんしてほんとうの意味で取り返してくれる。今日感じたやるせなさが、実りの秋に変わるのであればみんなが報われる。

こんなことを書きながら自分の人生を振り返ってみると、どうだろう。ぼくはミスと向き合ってきたかな、勝手に帳消しにしてなかったかな……そう考えるとちょっと身震いした。どこからともなく聞こえる「人のふり見て我がふり直せ」の声。ぼくもしゃんとしなければな、そう思った。

試合結果 https://www.yakult-swallows.co.jp/game/result/2021000295
※ヤクルト公式HPより

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